近所に「群像」が売ってません!

 方々歩けども、わが町に「群像」はなく、わざわざ注文までして読んだ阿部和重グランド・フィナーレ」。中原昌也のWeb小説「ワイルド番外地 樹海の虎」もようやくプリントアウト。あとは阿部の「20世紀」(こちらもWeb)が読めればなぁ。
 さて、ぼくもWebで小説発表してみようかしら。でも、紙媒体みたく何千年も残ったりすることはないだろうから安心して気楽にできるのかも、相当な人でない限り、知りもしない無名の作家の作品をわざわざ有限なPC用紙とかに印字するわけもないだろうから……
 だとしたら、1メガくらいのゲームソフト感覚がお手軽に楽しめるような小説を書いてみたいなあー。やっぱり2メガになった「バンゲリング・ベイ」あたりから、ゲーム特有の馬鹿馬鹿しさ感は、そこを頂点として下り坂になっていったような。ゲームは映画とかとも違うものだし、ということは小説とも違うものだけども、でもまっ、いいんじゃない、1メガ感覚の小説とか映画とか、ゲームが映画なんかそのモデルにしてきたみたいに、こんどはそういったメディアが逆に後進メディアの模倣をしていって、どんどん文明が同一化していき、挙句の果てには文化が死滅して、人類も滅亡して、ピテカントロプスに成る日も近づくってことでさ。
 そこんとこ、ヨロシク!(映画『ピンポン』のペコ風)。
 あーあ、でも、ぼくは悲観的ではないですよ、デリダが《幸福がすべてを腐らせ毒するということを》っていってたらしいのですが、昨日の『報道ステーション』で観ただけなんですけどね、いや、デリダかっこいいね! ほんと、自動車で砂漠みたいな荒れ果てた土が剥き出しの土地を車でかけてゆく哲学者って、ほんとからだのそこのそこのほうからみるみる力が漲ってきますですよ、はい。べつにニューアカとかじゃなくてああいう大人に憧れちゃいますよね、実際。
 よし、これから先週100円でレンタルしてきたヴィデオを観て、小説のことなんか全部忘れちゃおう、はははっ(福山風)。
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「ワイルド番外地」読みました。読んですぐ感想を書いてしまうのは条件反射的になにか大きな力に飲み込まれてしまって、ひどく抗いたくもありますが、まあ、そこはそこWeb小説ってことで、といってもあまり細かいことは思い浮かばないのですが、とにかくWebで小説を発表する意味ってあんのかな、というえらく根本的なことだったりして。
 この小説は第1章で中絶してしまった長編小説なのですが、そこらへんの事情は知りませんが、とにかくかなり過激な小説だとおもいます。こういった紙媒体で当然のように発表されている凡百の出版物よりもより過激な読み物が、いってみれば子供でも誰でも読めるインターネット環境で読めるという環境は、ネット上のほうが深夜番組などより無節操な表現がまかり通っている状態でありながら、誰でもいつでも、まあ、その検索の取っ掛かりさえあれば拝読できてしまうという状態と相通じながら、それはいわゆる表現の自由に対する自主規制への大いなる不満足が呼び起こしているムーヴメントというか、集団無意識的な動向というか、行動原理というか、まあ、なんというか。
 つまり、どこでもだれでも好きなときに読めるものの代表として、戦後民主主義は教科書という輝かしい書物をつくったとして、それが筒井康隆の「無人警察」をめぐる断筆宣言騒動で、ああいった小説を教科書から締め出してしまった哀しい教育現場や哀しい国に対する、哀しい抗議としての一連のインターネットをめぐる惨劇の数々……
 いまではもっとも才能がない小説家が国際的にも発言力を持ってしまい、もっとも才能がある作家の言葉は果たして国際社会にどのていど届いているのかな? そういったことに対する異議申し立てが、特にネットから沸き起こりつつ、まあ、それはひどく醜く、できることなら目を背けてしまいたいものが多いのですが……へへ。
 はたして、いま教科書に安部公房とかって載ってるんですかね? いろいろ事件はあったでしょうが、そういうものは、そういうものが極端に不足してしまっている窒息状態から起きるものであって、逆に抑圧したり、そういうものをなかったことにして一部のオッサンが読む物ということにしてしまってはこの国の滅亡は、加速度的に早まってゆくとしかおもえないのですが、載ってるんですかね、「棒」とか。ぼくは『密会』くらいしかまともに読んでいるものはないのですが、中学とか高校とかで『壁』とか『他人の顔』とかね、まあ、ぼくは生粋の不登校児でして、そういった危険分子なのかもしれませんがね! はははっ(福山風)。
 だから、そういう……代償行為としてですね、ネットの災禍は今後も続いて、といってもなんかヨイショするみたいでなんですが、この「はてなダイアリー」はいろいろ、ここ2日ででしかありませんが、観てみたところ、クリーンな感じでいいですね。ほんと東浩紀が日記やめちゃったのは残念ではありますが、いろいろ可能性があるような。
 とにかく「ワイルド番外地」はともかく過激ですが、それを筒井的・安部的、あるいは大江健三郎の『同時代ゲーム』風にアジャストし直しているのが、いまの「文学界」「新潮」に連載している作品群なのかなぁってね。あれ、それは『シンセミア』があくまでスノッブなフレームをつかって神々しくもやっちまったのかな。わかんないけど。
 ということで、Web小説のある意味失敗から現在の作家はしっかり創作していると、でも、まあ彼らの作品が教科書に載ることはないのでしょうが。やっぱりこれから教科書は衰退の一歩でしょう、ですからこういったネットの重要性は高まってきて、だからWeb小説の可能性もそこにあるのではないかと。
 そこんとこ、ヨロシク(『ピンポン』の窪塚風)。