はじめての「波状言論」

 読もう読もうとしていて、ようやく「波状言論」00号をプリントアウト。あー、ページ数が半端ねえ。ついでに13号も阿部和重×法月綸太郎めあてにドロップ。45ページ…… 用紙がすべてなくなりました。とほほ。むかしのパソコン通信みたいなレイアウトで郷愁というかタイムトラヴェル感があって不思議であるものの、もうちょっとレイアウト工夫できないものでしょうか? でも月2回も発行じゃあ、こういうのでもますます手作り感がでて、リアリティが増強される、みたいな。まるで大学のレジュメ読んでる疑似体験。なんか研究しているなという、自己陶酔。いかん、いかん、まず読まないとね。
 さあて、読むぞ〜。そういえばこういうWebマガジンやっているのって個人とか小さいコミュニティとかだと、まあ文学系でいうと、ほかに保坂和志とか中村航とか、あとだれかいるんですかね? なんか保坂和志ってけっこう芸能人というか業界人というかミュージシャンというか、そういった方々に愛読されていますよね。海外とかどうなんでしょう? 翻訳物ってあるんすか? あんまり思想系のひとって保坂に言及しているの読んだことないんですけど。ぼくもなにか書こうとしてはいるのですがなんか途中でやめちゃうんですよね。「それは保坂和志からはじまった」とかいう評論を書こうとはしたんですが、ある日ウィルスメールが飛ばされてきてパソコンがおじゃんになり、それ以来手をつけていませんので。
 保坂文学をドラマや映画化すればおもしろいとおもうのにな。なにかあるんですかね。しりませんけど。お金もかからなそうだし。ていうか、保坂文学こそ読もう読もうとおもっても読みあぐねているのですが。「この人の閾」は読んだけど。ああ、これは確実に翻訳出てるでしょうね。芥川賞だし。芥川賞なんて、そういった機能ぐらいしかいいことありませんものね、実際。だから選考委員の責任は重大かつ深刻だとおもいますよ。けっして馬鹿が務めてはいけない役職ですよね、あれは。
 あーあ、だから使えない奴は首にしろっていっても、まあ虚しいだけですよね、そんな覇権闘争じゃあなんにもかわりませんよ、バタイユもそんなことおっしゃっていませんでしたか? もういまじゃあ、みててかわいそうにおもうだけですよ。なんでこんなに馬鹿なんだろうかってネ。お互いにそうおもっていても、もっと馬鹿馬鹿しいだけではありますが、まあ仕方ないのではありませんか、もう国の機能と一緒でシステム自体腐っているのでしょうから……
 すべてモブ・ノリオでおしまいってことでいいのじゃないですか。これで御破算だと、三島さん、川端康成先生、どうも才能がなくてすいません、どうも生まれてすいません、才能がないひとはこういったことをするしか生きる道はないのです、それだけこの世界は厳しくも恐ろしいものなんだってね。そういうことですよ、総理大臣と一緒ですよ、馬鹿な3世はああいったパフォーマンスでもしなけりゃ生きていけないのでしょう。でも、そういうのはもう終わりってことでいいんじゃないですか。もうなにも期待しませんから。
 だまされるのはうんざりです、むごい死を肴に金儲けする輩はもういやです。せめて、せめてそういった死をああいう腐った連中から開放するためだけにいきていきたいですよ、ほんと。
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『恐竜・怪鳥の伝説』観ました。渡瀬恒彦かっこよすぎ! 石原軍団の知性をまったく感じさせない連中とはやっぱり違いますね。裕次郎には感じるけどさ、あと峰竜太とか。もう2人とも離れているわけですがね。
《愛をこめて殺しあう》《疲れた歴史に……》《海と大地と太陽のシンフォニーは終わった》とか挿入歌の歌詞がすごすぎ。いや〜、映画ってほんとすごいですね。
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『青春の蹉跌』を観る。すごいすごいと聞きはしていたが、やっぱりすごかった。これをちゃんとある意味学術的に捉えとかないと21世紀の日本映画はない、とも断言できるのかも。もうだれかやってはいるのかね、石川達三ね、壇ふみね、それだけでかなりすごい力が働いているんだけども、いやー、日本もすごいよ、やっぱり、ぜんぜん捨てたものじゃないよね。いまはひどいけど。映画『風の歌を聴け』も相当よかったけど、この文脈で観てくとより判るね。でも90年代とかだとアニメとかにとってかわられるのか、でもギリ『キッズ・リターン』があるといえるのかも。もしくは『トーキング・ヘッド』までいってしまうとか。で、いまは『ユリイカ』か。まあ、そうなるけど。

波状言論』って原稿募集しているのですね、こういうのはもう割り切ってどんどん送っちゃったほうがいいんじゃないですかね、ほんと、小説のことばっかし考えていると死にたくなりますよ。デビューの場というよりは研究とか情報交換の場としてね。映画のことくらいしか書かないとおもうけど。いやー、やっぱり慎太郎の気持ちも判るね、小説小説、文学文学っていっているとほんとああいうふうに無責任放題いってしまいたい欲求にもかられないでもないけど、もっとほかのとこでできることなら発散して小説書けないものかね、ほんと。
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 満月の夜なので興奮して眠れません。けっこう『シンセミア』って女性層にも読まれているんですね。知り合いの知り合いの人がパルコブックセンターでバイトしている女性の方でしたが「アベカズシゲキラーイ」ってなんかの小説読んでいったとかそうな。それにしても3日も日記を書いてきてほとんど女性の名が挙がらないなあ。壇ふみくらいか。でもほんと最近おもうのはたとえばアイドルのラジオ番組とかってほんと男性のディレクターが仕切っているのって聴くに耐えませんよね、マジで。ただ、ぼくがアイドルに異様にお熱を上げすぎているだけの嫉妬の感情とかじゃないような気がするんですが。でも、ほんと男だけの職場とか組織とかなんてほんとぜんぜんだめだとおもいますけどね、相撲とか歌舞伎とかみるにたえない。宝塚とかも。べつに同性愛者を差別するとかいうんじゃなくてひとつの団体としてね、貧弱な感じがするというだけのはなしですが。だから、ばんばん文学とか映画とかもね、女性の力がいまもっとも必要な媒体だとおもうんですが、どうも、なんかね、読めるのは金井美恵子笙野頼子松村栄子多和田葉子清水博子、猫田道子くらいかなあ。だからそもそもこうやって女性って枠でないとでてこないような、状況がね、馬鹿馬鹿しいと。ぼくは福沢諭吉の男女同数論(だっけ?)を断固支持する口ではありますが、ほんと男性作家と女性作家の数がおんなじくらいになんないかなあ。おんなじくらいいるのかなあ? でも映画監督とかは圧倒的に男がおおいような。
座頭市』マジですごかったね。なんか怖くていままで観れなかったけど。なにせぼくは北野映画を観て映画を撮り始めた口ですから。はじまりはまさにビートたけしのリハビリみたいな感じで淡々と進んでゆくっていうふうですがね。だんだんやばくなっていきまさーね、これ。この編集のカットの切り換えの鋭さっていったいなんなんですかね。なにか見ちまったんですか? 武は。あのバイク事故で。スタッフの、まあ小川プロなんだからそうなんでしょうけど、スタッフの総合力では青山真治が上なんでしょうけど、作家としては武のほうがまだまだ全然上ですね。うん。『ユリイカ』と『菊次郎の夏』でも、カメラワークとか音声とか照明はそりゃかないませんよ、小川プロには。でも終わらしかたとか、作品全体のバランスでは、というか作品がもつ根底的なメッセージでいけば武が上でしょ。あきらかに。予告編とかは両方ともクズでしたけど。なんで最近の映画のコマーシャルってああもつまらないのでしょうか。おそらく人材の問題でしょうね。昔の奥山和由の武映画のコマーシャルとか最高だったんだけどな。最近は才能をないのをウリにするのがはやっているんですかね? それを観て、あーあ馬鹿だなぎゃははははってさげずんでればいいんでしょうか。やな世の中だ。
ダンサー・イン・ザ・ダーク』と較べても『座頭市』はいきますね、まじで。これを「可視と不可視」というテーマで『波状言論』に送ろうかしら。でも阿部とかがもうやっているのかな。がく。後発世代はつらいっすね。上が有能だと特に。だから武も伊丹十三というモンスターと格闘してね、あそこまでいったのだとおもいますよ。実際。文学ではやっぱり大江健三郎という難攻不落の化け物がいますがね。まあ大江に無視されたここ10年間の文学状況はとっても厳しいものでしたが、そんななかで阿部・中原という天才がうまれたことはほんと喜ばしいことでありますわね。でも、また下の世代がね、阿部・中原に総すかんされるというこの状況。純文は厳しいなあ。でも川端・三島の悪夢がありますからね。ほんと呪われていますよ。映画も文学も。野球とかもそうでしょうけどね、まあそれだけ文化っていうか、なにかを継承してゆくというのは逃げ出したくなるほどおっそろしいものですけどね。実際問題。でもそれが生きていく意味だともおもいますけども、いろいろなアブストラクトなゆーわくがあるんですよね、この煉獄。あーあ、だからもう阿部・中原もそろそろ文学について熱く語ってほしいですよ! 映画ばかりじゃなくって。賞も獲ったんだし、蓮実重彦男爵にも接見できたんだし、もういいじゃないですか! 新しいものについてさ、どんどん口出ししてくださいよ! ぼくの世代の代表作家は平野啓一郎だけじゃないんですよ。ごろごろいるじゃありませんか! これからもいっぱいでてきますよ、うじゃうじゃと。そういったときに島田雅彦保坂和志だけじゃたりませんよ! わあー。